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5惜別・慚愧の痛みの中で

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5惜別・慚愧の痛みの中で

昭和十七年(1942年)〜昭和二十年(1945年)

昭和十七年三月一日 方針を固める

 正直とか、人格的とかのみでは成功することは勿論、或は食うことにも事欠く事実は見逃し難い。亦危険を恐れて大事のみを取っておっては遂に何も為すことは出来まい。人生そのものが既に冒険的な危険極まりない一つの事業である。危険のないことは死を意味する。危険を冒し困難を征服していく努力が生命を象徴する。

 餅屋は餅を、大工は家を作る。人には転職があり、夫々の運命がある。

 自分には自分の進んできた歴史と経験によって転職がある。

 自ら独立するとすれば、経理事務の一つに限られ思慮の範囲はごく狭い。当分藤本木材会社を本職とし、税務代理士を兼業とする方針をかため、(熊本から)八代に転宅を決心する。

 

昭和十七年八月一日 丸木橋

 県木社からも手を引きいよいよ月給の手綱を離れることになった。

 危険でもある代わり自由に発展することもできる。

 かけた丸木橋を渡るのに似ている。うまく渡れればよいが、正直すぎてこわがったり、人に気兼ねをしたりする欠点がある。邪魔をする者があったら押しのけて通るくらいの意地と実行力が必要である。

 役人や会社員の月給取りの気持ちではやっていけない。役人で固めてきた小さな根性ではいけない。体裁や、遠慮や、気兼ねは此の際失礼して馬鹿になれ、そして天馬空を行く実行力を具現して行きたい。

 

昭和十七年八月二十日 仕事を求めて

 税務代理士を開業はしたが、まだ藪井竹庵様と同じく開店休業に等しい。

 もとより半年や一年は相当の赤字は覚悟しているし、しかも開店初月の八月もかき集めて百九十円は入金があっているので、悲観状態ではない。・・・・省略

 

昭和十七年十二月三十一日 心身ともに大きくなれ

 大胆に勇敢に、多少の危険に構うことなく、信ずる所を力強く突き進んで行け。多少の失敗や、横着と思われることがあっても気兼ねするな。

 従来の青年時代以来通してきた自分の観念の一大転換である。

 自分の道徳観念、人生観が社会の変化と、自分の境遇とに因って行き詰ったためかも知れない。

 

昭和十八年七月七日 三千夫逝く

 夢であれかしと祈りつつも、現実の過去に固まりつつある三千夫の死、それは遂に本当ではあるまいか。何処に遊びに行ったか、眠っているかもしれぬと思って見ても、すでに三千夫の身体が人間世界からなくなってしまっているという事が、日を経るにつけて確認せしめらるるのみだ。

 三千夫の死は事実に相違ない。あんなに元気で、聡明で、可愛かった子が、あの夜、あのとき急に死んだのだ。そしてあの日の葬式で、野辺の煙と消えてしまったのだ。<中略>

 三千夫の死に直面したときの、世に生き甲斐も楽しみも消え、絶望を感じた時から数日のことを記録しておきたいと思ったが、どうしてもそれが文にならなかった。

 

昭和二十年四月六日 貞夫級長になる

 貞夫が八代中学に入学した。合格者三百六十六名中、六位であった由、四組の第一級長である。身体が弱くて欠席ばかりしていた子が、幸い中学入学試験の頃から調子がよくなってはいたが、級長とは意外千万である。恐らくは孝行の初回であろう。これを機会に転落しないようにし、折角の栄誉を傷つけないように頑張って貰いたい。

 

昭和二十年八月十五日 敗戦降伏

 正午から重大発表があるというので、天皇陛下御自らの御声ではないかと畏れ多い事を考えていたら、やはり聖上陛下の御声であった。

 大東亜戦争休止の御詔勅である。何という悲痛極まることであろう。

 聖慮を悩まし奉るは、国民の責任であり、軍も官も民も陛下に対し、利己主義な官吏が多かった事になる。

 泣いてみても、喚いてみても、敗戦は既に事実である。お互いに責めあい、咎め合ってみたところで後の祭りだ。此の上は事をあきらめて内乱を起こさぬよう、配給機能が順調に行われ、社会の安寧秩序が乱れぬように、祈念するのみである。