上原税理士事務所  おかげさまで78年

1挫折の青春にゆれつつ

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1挫折の青春にゆれつつ

日誌以前、メモをたどって

ひとつの夢・・・・・・・十七歳の頃

 彼は草刈りの手を休めて空を仰いだ。

 山の上の薄墨色の雲はちぎれて、徐々に淡いオレンジや、白にふちどられながら動くともなく流れていた。

 眼下の盆地には、種山小学校の黒い屋根と、周りに点在する藁屋根の家々がひっそりと目覚めはじめ、麦とれんげの、だんだら模様の耕地のところどころに、菜の花畑が、朝日を待ちかねるように黄色く浮き上がっていた。

 五家荘の山々から流れ出た谷の水は、集まって村の中央を横切り、立神峡の方へと流れている。その流れの先には町があり、広い田があり、海がある。そしてその海は遠い世界へとつながっている。

 彼はふところに入れている英語の本を出してみたくて仕方がなかった。彼の勉強好きを知っている役場の上司からもらったものである。でもいま彼は、それをひろげて見ることはできない。弟と二人、日曜の朝の日課の草刈りを急がねばならない。

 二つ違いの弟と山へ行くのは楽しかった。山は昴然の気を養ってくれた。そして二人に限りない大きな夢を与えてくれた。 <中略>

 彼は早く本を読みたい衝動と、いま一つ心にかかる問題があって、それが今日の彼の動きをいっそう鈍くしていた。それは、彼に養子縁組の話が持ち上がっているのを昨夜耳にしたからである。

 その養子の話がまとまれが、彼の大きな夢はこわされることになる。弟と二人、いつか上京して働きながらでも勉強したい。都会に出れば、仕事もあるし、夜間の大学にでも入れる。まず都会へ出ることが二人の夢であった。その唯一の夢の実現がむつかしくなってしまう。彼の心は重かった。

 いつしか山の上の雲は、真っ白な雲となって悠然とながれていた。

 大正七年(1918年)春頃の平和な山村の朝であった。

 

養子縁組・・・・・・・十八歳の頃

 彼は明治三十四年(1901年)十一月七日八代郡種山村、上村太十、ハツの三男として生まれた。兄二人、弟一人、妹二人、六人兄弟の真ん中の彼は父母や、兄たちには従順にしてよく手伝いをしたし、妹二人には優しく何かれとなく面倒を見た。

 小学校卒業のとき、担任教師は、彼を進学させたいと、しきりに父母の説得に通ったし、村の有志から学費を出したいという申し出もあったが、律儀で頑固な父親は、彼の進学をゆるさなかった。六人の子供に公平にと願う父母は、いくら優秀だからといっても、三男坊だけを中学へ入れる訳にはいかなかったのである。

 その後、高等小学校に入ることのみを許された彼は人一倍勉強もしたし、家の手助けもよくやった。やがて二年間の課程を終えたが、学問のためとはいえ、父母に逆らって直ちに家を出る勇気はなかった。<中略>

 相手の上原家は、松井家に仕えていたが、明治維新で碌を失い、先々代の養子は巡査になっていた。こどもがなく次の養子、順八も、巡査として種山村に赴任していたが、先年、四十八の若さで病没してしまって、現在の当主タヤは、同じく家付きだった母親のマツと二人でひっそりと暮らしていた。

 当時タヤは、三百五十年前、信州上原の城主であったという上原加賀守とか、二代目伊賀守などの先祖付のいかめしい名前を並べ、三代目から「かんばら」を「うえはら」と名乗るようになり、その三代目長三郎源公が、丹後の国から、細川氏と一緒に豊後の国に入った事、そして寛永十五年、島原で戦死したことなど、綿々と誇らしげに語る気位の高い気丈な若い未亡人であった。<中略>

 彼の両親、親戚は「士族のお名前を頂戴するだけで光栄至極です」と諸手を挙げて賛成し、仲人は「将来の立身のためには、先ず士族であることが大事である。勉強はいつでもできるのであるから」といって、彼の遠大な計画も、一途な夢もお構いなく大正八年には、彼の戸籍は上原へと、移されていた。